地下鉄サリン事件で25年間寝たきりになった浅川幸子さんの最期が辛すぎる

地下鉄サリン事件に巻き込まれ、事件後、25年間寝たきりとなり3月10日に死去した浅川幸子さんの晩年について調べ、あまりにも辛い最後の様子や、兄の浅川一雄さんによる記者会見での証言などもまとめています。

1995年3月20日に発生した地下鉄サリン事件に巻き込まれ、その後25年に渡って寝たきりの状況が続いた浅川幸子さんが、2020年3月10日に亡くなっていたことがわかりました。死因はサリン中毒による低酸素脳症でした。

浅川幸子さんは事件発生当時、丸ノ内線でサリン被害に遭い、心肺停止の状態で見つかり、脳に障害を負ってしまします。以後、兄の浅川一雄さんらによる献身的な介護により、支えられる状態でした。

この記事では、サリン事件後の25年間の壮絶な介護や、あまりにも辛い状況について調べ、まとめています。

兄の浅川一雄さんが会見

3月19日には兄の浅川一雄さんが記者会見を開き、事件当時の状況、その後25年の介護生活、そして亡くなる直前の様子を語りました。

幸子さんの死去を受け、兄・一雄さんは3月19日、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し「この25年は、僕たち家族はずいぶん力をもらった。幸子が亡くなって、つらい悲しいだけではいけない。これから前向きに生きていかないと、幸子が悲しんでしまう」と語った

医者から「今後皆さんと一緒に食事をしたりお話をすることは厳しい」と幸子さんが寝たきり状態になることを告げられた。「奇跡は起こらないんですか」。一雄さんの母が涙ながらに聞くと、「生きていることが奇跡です」という言葉が返って来た

幸子さんに異変があったのは、2017年12月17日。ヘルパーから「様子がおかしい。体がけいれんし、意識が朦朧としている」と電話があった。その後口から栄養を取ることができなくなり、入院生活が始まった

「天気がいいから遊びに行こうということもできないんですよね。例えば子供が連れてってと言っても、妹を引き取って一人にしておくことはできないので。些細なことも何もできなくなったことで、子供たちにも苦労をかけ、かわいそうな思いをさせたような気もします」

地下鉄サリン事件で被害に遭いながらも生き延びたことは奇跡的ですが、その後の25年間は介護をする家族にとって、あまりにも辛い状況であったことがわかります。

浅川幸子さんの職場は地元でしたが、この日はたまたま職場の研修で現場の責任者だから行かねばならず、丸ノ内線に乗ったところで被害に遭ったと言われています。

職場の研修さえなければ…と、周囲の人も罪悪感に悩まされたのではないでしょうか。


浅川一雄さんの手記からわかる晩年の状況

浅川幸子さんは2017年にけいれんを起こして入院し、食べ物を自力で飲み込めなくなるなど24時間介護が必要な状態になってしまいました。

この状況が公安調査庁のHPで公開されていますが、あまりにも辛そうで、地下鉄サリン事件およびオウム真理教の卑劣さを感じてしまいます。

平成29年10月,幸子は,けいれんを起こし入院しました。原因は,分からないとのことです。今までは,ミキサー食を人の手を借りながらでも口から食べることができていましたが,自力で飲み込むことができなくなりました。身体の硬直がひどくなり,顔が上に向いたままになってしまい,食事ができないのです。今後,どのようにして栄養を取っていくのかをお医者さんと私たち家族とで相談し,胃ろうにしました。胃ろうというのは簡単に言ってしまえば,胃に小さな穴を開けて,器具をつけ,栄養を直接,胃に入れるということです。 胃ろうになったことでタンの吸引も行わなければいけないのですが,この時,幸子の顔がゆがみ,とても辛そうです。しかし,タンを吸引してあげなければ,窒息してしまうのです


浅川幸子さんが亡くなる直前の様子

浅川幸子さんが亡くなる直前の様子を兄の浅川一雄さんを取材し、公開しています。

とても痛々しく、地下鉄サリン事件の凄まじさを25年経った今にも伝えているかのようです。

 

 


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