2019年11月10日に天皇皇后両陛下が即位祝賀パレードが行われました。
沿道には11万人以上の人が詰めかけ、皇后雅子さまは観衆の声援に感極まった表情で時折、涙を拭う姿を見せたことも大きなニュースとなりました。
天皇皇后両陛下がこのように元気な姿を見せる一方で、雅子さまの過去の体調不良や適応障害は美智子さまのイジメが原因ではないかという声が徐々に大きくなりつつあります。
この記事では美智子さまによる雅子さまいじめの実態をまとめてみました。
雅子さまへの外国訪問禁止令
1993年にご成婚された雅子さまは、海外育ち、外務省出身というバリバリのキャリアウーマンで、皇室入りするきっかけも「皇室外交」をするためだったと言われていますが、そんな雅子さまに、いきなり「外国訪問をさせない」といういじめが発生します。
この雅子さまいじめの主犯は96年から2001年まで宮内庁長官を務めた鎌倉節(かまくら・さだめ)だったと言われています。
皇太子ご夫妻の公務旅行が多いことが、お世継ぎ誕生を停滞させていると懸念した鎌倉氏は、「皇太子ご夫妻がなすべきことは“お世継ぎ”づくり。そのために(1995年1月の)中東訪問を区切りとして、政治問題に巻き込まれやすい海外訪問は当分、ご遠慮いただく」という方針を打ち出し、皇太子ご夫妻の海外訪問を“禁止”したのだった
その後も宮内庁による海外渡航禁止令は続いており、海外紙「ニューヨーク・タイムズ」にも以下のように報道されています。
2001年に愛子様がお生まれになったあとも、第二子をお作りになる妨げになるとして宮内庁は雅子様に外国への渡航を禁じた。それが雅子妃の適応障害につながり、公務から遠のくことになる
ここで問題になるのは、長官をはじめとした宮内庁の人間は雅子さまに何かを命令できる立場なのか?ということです。
宮内庁の人間の単独行動ではなく、背後には美智子さまの命令があったと考えるのが自然ではないでしょうか。
美智子さまは海外要人と外国語で会話できる雅子さまが国民の注目を一心に集める一方で、自分が注目されなくなっていくことを恐れていたと言われています。そして子飼いの週刊誌記者を動員して「外国訪問より子作り、世継ぎを産め」という世論を形成していきます。
男児を産めという圧力をかける
ご結婚後、個性を封じ込め『お世継ぎ』を最優先させる皇室という環境に対し、雅子さまは深く悩まれていました。皇室の将来を案じる両陛下や宮内庁幹部と行き違いも生じていました
皇居内部の事情通によれば、結婚以来毎月皇太子妃は天皇と皇后の前に呼び出される。この上なく丁寧で堅苦しい言葉を使い、天皇は雅子妃がその月生理があったかどうかを尋ねる
そのたびに彼女は恥ずかしさに頭をたれ、悲しいことにまだ妊娠していないことを告白しなくてはならない。事情通たちはまた、雅子妃が世継ぎを産む義務を果たすまでは外出できないことを指摘する
鎌倉宮内庁長官が直接、雅子妃に圧力をかけたという。通常、長官といえども皇太子夫妻から「お召し」がなければ勝手に会いに来ることなどできないのだが、1997年2月、鎌倉長官はその禁を破り、強引に乗り込んできた。そして部屋に入るなり、世継ぎの話を切り出したという
前置きもなく、いきなりお身体のことを話し始めたといいます。雅子妃殿下は羞恥心と驚きで複雑なお気持ちになったそうです。ひとりの女性が夫婦間のことなどを他人に軽々しく言えるはずがありません。雅子妃はしばらく黙ったままだったそうですが、あまりに理解がないためプライバシーについて言われたところ、結局、聞き入れてもらえないまま話は平行線に終わったと言われていました
(湯浅利夫宮内庁長官は)2003年(平成15年)6月10日、記者会見で皇太子夫妻の第2子への期待について「やはりもう一人ほしい」「多くの国民もそう考えているのではないか」と発言した
雅子さまの公園デビューを潰す
愛子さまの公園デビューの時(2003年5月)も、お忍びのつもりが、ふたを開けてみれば一部の報道機関や一般人までもが大挙する大騒ぎに。警備面から強く反対していた宮内庁は、お忍びは難しいという状況をあえてつくり出すため、情報を漏らしたといわれている
こうした度重なる出来事に、両陛下は宮内庁に対する不信感を強め、雅子さまはますます孤立を強いられた
宮中晩餐会で雅子さまの紹介をわざと飛ばす
そして、2003年10月15日、決定的な事件が起きる。メキシコのフォックス大統領夫妻を迎えての宮中晩餐会でのこと。この晩餐会では主催の両殿下から皇族方が順番に紹介されるのが儀礼となっていた。しかし−−−−。
「まず燕尾服姿の皇太子を紹介されて、次はイブニングドレス姿の雅子妃の番でした。フォックス大統領が雅子妃に向って手を差し出されたのですが、隣の秋篠宮殿下が紹介されたため、一瞬、大統領の手が宙で迷われ、おかしな雰囲気でした。雅子妃は明らかに引きつったようなご表情でした」(元東宮職)
そう、雅子妃は妃殿下として紹介されず、スルーされてしまったというのだ。このことが雅子妃から自信を喪失させ、その後11年間、雅子妃は宮中晩餐会に出席することはなかったという。
メキシコ元大統領は本国で出版した回顧録の中で、この紹介すっ飛ばし事件を記述している、という書き込みもありました。しばらく後に雅子さまが病気と発表されたのを知り、「やはり悪い予感が的中してしまった」と嘆かれたという情報も
雅子さまの紹介をわざと飛ばしたのは美智子さまではなく、上皇陛下とのことですが、上皇陛下夫妻と天皇陛下夫妻との対立は、美智子さまと雅子さまの確執が発端であるため、あえてこのエピソードを挿入しました。
湯浅長官をそそのかせて雅子さまを追い詰める
2003年12月4日に、雅子皇后は体調を崩し、宮内庁病院に入院する事態に。4日で退院したものの、翌年春までの公務休養が発表された。病名は「帯状疱疹」と発表されたが、「強迫神経症」「鬱病」という見方が濃厚で、実際、週刊誌ではそういった報道がなされた
2003年12月11日
湯浅利夫宮内庁長官
秋篠宮さまお考えもあると思うが、皇室の繁栄を考えた場合、3人目を強く希望したい
宮内庁はその精神が不安定な雅子皇后に追い討ちをかける。湯浅長官が雅子皇后の退院直後の記者会見で、秋篠宮の第三子の可能性について聞かれ、「秋篠宮さまお考えもあると思うが、皇室の繁栄を考えた場合、3人目を強く希望したい」と言ったのだ
精神科医の片田珠美さんは、この発言が雅子さまを極限まで追い詰めたと指摘する。
「完璧主義で努力家の雅子さまは、それまで自らの努力で成功体験を積み重ねてこられました。それなのに出産後、愛子さまが男児でなかったことで第2子出産の期待が高まり、さらに湯浅長官の発言によって“自分は見捨てられた”との絶望感やストレスに見舞われたはずです」
人格否定発言で皇太子が皇室内に起きていることを国民に知らせる
皇室外交を封じられ、男児を産めというプレッシャーで体調に変調をきたした雅子さまを守るために、当時、皇太子だった徳仁親王が「人格否定発言」をします。
2004年5月10日 - 王室の結婚式参列などでの欧州3か国歴訪を前にした皇太子徳仁親王の記者会見における発言
この人格否定発言後、皇室、宮内庁でさまざまな発言がありましたが、それらを時系列でまとめてみました。
2004年5月10日
皇太子徳仁親王
長野県での滞在は,とても有益なものではあったと思いますが,まだ,雅子には依然として体調に波がある状態です。誕生日の会見の折にもお話しましたが,雅子にはこの10年,自分を一生懸命,皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが,私が見るところ,そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや,そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です
2004年5月13日
湯浅利夫宮内庁長官
両陛下も心配している
2004年5月18日
羽毛田信吾宮内庁次長
(侍従長を通じての天皇の意見として発言)社会的影響の大きい発言で、改めて(皇太子から)具体的内容が説明されなければ、国民も心配しているだろう。皇太子さまというお立場を考えての両陛下のご心配だと思う。現在は外国訪問中なので(もし再説明があるとすれば)帰国を待ってからになるかもしれない
2004年6月8日
皇太子徳仁親王
(人格否定発言に関する文書を発表)対象を特定して公表することが有益とは思いませんし、今ここで細かいことを言うことは差し控えたいと思います。個々の動きを批判するつもりはなく、現状について皆さんにわかっていただきたいと思ってしたものです
2004年11月29日
秋篠宮文仁親王
5月の皇太子のご発言については、私も少なからず驚いたわけですけれども、陛下も非常に驚かれたと聞いております。私の感想としては、やはり少なくとも記者会見という場所で発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、その上で話をするべきではなかったかと思っています。そこのところは、私は残念に思います
秋篠宮文仁親王
(今後の公務の在り方について問われ)あくまでも私個人としては,自分のための公務は作らない。つまり自分がしたいことはいろいろあるわけですけれども,それが公務かどうかはまた別ですね。私は公務というものはかなり受け身的なものではないかなと。こういう行事があるから出席してほしいという依頼を受けて,それでこちらもそれが非常に意義のあることであればそれを受けてその務めをする。私自身はそういうふうに考えて今までずっと来ています
2004年12月23日
天皇陛下
(文書で発表)初めて聞く内容で大変驚き、『動き』という重い言葉を伴った発言であったため国民への説明を求めました。皇太子夫妻の独立性を重んじてきたことが、様々な問題に気が付くことのできない要因を作っていたのだとすれば大変残念です。まだ私に十分に理解しきれぬところがあり、細かい言及は控えたいと思います
皇太子(当時)は「人格を否定する動きがある」とはっきりと発言していますが、秋篠宮文仁親王も天皇陛下も「驚いた」「残念」など、反応が冷淡です。雅子さまを気遣うというより、「人格否定」という事象自体を認めないニュアンスが強いです。
秋篠宮文仁親王の「自分のための公務は作らない」発言は、雅子さまの皇室外交への希望を批判しているようにも受け取れます。
これは、天皇陛下がマスコミを使って「うちの両親と親戚とその取り巻きたちがうちの嫁いじめをしているんだぞー」と公表したことにほかなりません
宮内庁としては「男子のお世継ぎが優先で、公務などは控えめに」という要望を度々東宮職に伝えていたが、雅子さま(そして当時の皇太子殿下)は「自由にやらせてほしい」という立場を崩さなかった。この両立場の衝突が、宮内庁による「雅子さま人格否定」に繋がったのだ
「いくら学歴があっても、石女(うまずめ)は不要」といったような発言がおおっぴらに宮内庁内で囁かれるようになった。雅子さまは“美智子天皇”との折り合いが今一つであったため、この雅子さまの人格を否定する流れは一層加速した
なぜこの時、美智子さまは雅子さまを庇わずに、人格否定の流れを黙認したのだろうか? 当時は解らなかったが、今でこそよく解るような気がする。美智子さまは、雅子さまを恐れていたのだ。美智子さまは姑と折り合いが悪く、皇太子妃時代は常に一歩引き下がり我慢を強いられた。だが自身が即位するや、香淳皇后に“意趣返し”とばかりに様々な措置を取った。「いずれは私も皇太后になり、雅子さんが皇后になれば同様に追い詰められる」――。そのような思いが美智子さまの胸中を巡ったに違いない
だが「宮内庁」という組織そのものが、雅子さまの人格を否定していた事実は動かせないと思う。本記事タイトルの結論を言うが、雅子さまをイジメていたのは「宮内庁」という組織に他ならない。
もし主犯を一人だけあげろと言われるのであれば、言いにくいのであるが、もちろんそれは宮内庁にモノが言える立場にある方だろう。それが私の結論だ
皇室典範改正をやめさせる
(2005年11月24日)「皇室典範有識者会議」が報告書を提出。女性天皇・女系天皇を容認し、皇位継承順位は第一子優先。女性宮家の創設を認めるという内容
(2006年1月)歌会始。秋篠宮「人々が笑みを湛えて見送りしこふのとり今空に羽ばたく」
紀子妃「飛びたちて大空にまふこふのとり仰ぎてをれば笑み栄えくる」
元々「コウノトリ」は皇太子殿下が用いた言葉でした。 子宝に恵まれないことを優しくメルヘンに喩えて、のんびり暖かく見守ってくださいと。 彼らはそれを借用し、己の高笑いに変えているわけです。
「男児を作ります。両陛下の承諾も得ています。私たちに栄光を。」、そういう歌です
(2006年2月7日)NHKが紀子妃懐妊速報。国会で小泉首相驚く
2006年(平成18年)2月に秋篠宮妃紀子に第3子懐妊が明らかになり、この問題についての議論はその出産まで先送りされた。2006年(平成18年)9月、秋篠宮妃紀子が悠仁親王を出産し、41年ぶりの皇族男子の誕生となり、直系長子優先継承・女系継承容認の議論は沙汰止みとなった
小泉首相の後任の安倍晋三首相は、「直系長子優先継承、女系継承容認」の有識者会議の報告を白紙に戻し、静かに慎重に論議していくことが大切と述べた
雅子さまのオランダ静養を批判
2003年12月以来の療養生活が続く雅子さま。2005年1月の一般参賀で公の場にでてからは、すこしずつ外出の機会も増えていた。そんな状況下で、極めて異例ともいえるプランが浮上した。2006年8月、皇太子ご一家は約2週間にわたってオランダで静養されたのだ
天皇陛下
私どもの外国訪問を振り返ってみますと,国賓に対する名代としての答訪という立場から多くの国々を訪問する機会に恵まれたことは,国内の行事も同時に行い,特に皇后は三人の子どもの育児も行いながらのことで,大変なことであったと思いますが,私どもにとっては,多くの経験を得る機会となり,幸せなことであったと思います。それと同時に名代という立場が各国から受け入れられるように,自分自身を厳しく律してきたつもりで,このような理由から,私どもが私的に外国を訪問したことは一度もありません
このご発言の要旨は要するに、『今後、皇太子「夫妻」へは「名代という公務」を与えないから、雅子さまの海外訪問は無しだよ』宣言です。これが、皇太子「夫妻」の海外ご公務が、「2007年以降、10年以上2回しかなかった」と指摘されている原因です
スペイン王室と歓談する雅子さまを美智子さま睨みつける
2017年4月にスペインのフェリペ6世とレティシア王妃が来日したときの動画です。
上の動画は該当場面から再生できるようになっていますが、天皇陛下(現・上皇陛下)が雅子さまを紹介され、懇談されているのですが、うしろから美智子さまが冷めた目つきで「いつまで話してんだ」「語学力をひけらかすな」とでも言わんばかりの圧力をかけているようにも見えます。
退位しても皇居を占拠
天皇陛下の即位の礼も終わり、名実ともに令和の天皇皇后両陛下へと代替わりしたわけですが、じつは皇居にはまだ上皇陛下夫妻が居座っており、天皇皇后両陛下は現在も赤坂御所に住んでいます。
上皇陛下夫妻は当初は夏から秋にかけて高輪皇族邸へ転居し、仮住まいの後、天皇皇后両陛下が引っ越した後の赤坂・東宮御所へ引っ越す予定でした。しかし現在も引っ越し作業は進んでいないことが伺えます。
ついに大手メディアからも出始めた前天皇皇后両陛下の批判記事
いままでの雅子さまバッシングが一転、皇室内の雅子さまいじめが明らかになるにつれ、大手メディアからも上皇陛下夫妻を批判的に扱う記事が出始めています。宮内庁の元常駐記者が以下のように暴露しています。
正直に言いますと、私は現役記者当時から、前天皇夫妻を好意的に見ることができませんでした。「他人の口を介した報道で世の共感を得る」のは、何度となく繰り返されたやり方だと思っています
記者会でも「平和を希求し、戦没者慰霊や被災者への寄り添いを続ける素晴らしい天皇、皇后両陛下」との比較で反感を抱くのか、平場ではほとんどの記者が雅子さんを「雅子」と呼び捨てにしていました。皇太子を「息子」とか「長男」と呼んではばからない人物も、前天皇夫妻の周辺にはいました
私は、前天皇が多用してきた「象徴の務め」なる言葉に反感を持ちます。象徴天皇の「義務」は、憲法に定められた国事行為のみなのに、それ以外のことも含めて「務め」と言ってしまえば、後の天皇たちは、それぞれの思いで自由にふるまえなくなってしまうのではないかと心配です
美智子さまはマスコミを操作して雅子さまバッシング記事を書かせていた
新聞や雑誌に皇室報道が含まれる場合、職員は発売日未明のうちに現物を手に入れ、該当記事を切り取りスクラップ帳に張り付けておかなければならない。そして朝食の時に、美智子さまにスクラップ帳をお届けし、美智子さまのお言葉、感想をいただくのだ
美智子さまが考え出した妙案が「メディアに情報を意図的にリークして記事を書かせる」だ。結論的には朝日新聞系列に情報が流されることになり、その後『週刊朝日』が美智子さまを擁護する記事を連発するようになる。
これが美智子さまによるメディア操作の始まりだったと言って過言ではないだろう
元宮内庁職員がブログで、美智子さまが週刊誌をチェックしていて、かつ意図的に情報をリークしている事実を暴露しました。
つまり、一時期、週刊誌が雅子さまを執拗にバッシングしていたのは、美智子さまによって意図的にリークされた情報をもとにしていた可能性が提示されたわけです。
美智子さまが雅子さまをいじめる理由は?
前天皇夫妻、特に美智子さんは、プロデュース能力にたけた人だと思います。若い読者には「優しいおばあちゃん」のイメージしかないかもしれませんが、若いころは、大きなサングラスを頭の上にかけるなど、女優然とした振る舞いで世間の憧れを浴びるファッションリーダー的存在でした。そこには強い「自意識」を感じます
美智子さん自身が「天才女優」と言ってもいいと思います。自分がどう見られているか絶えず意識し、自分たちを報じるものにはほとんど自ら目を通していると聞きます。「自分が一番目立っていないと気が済まない人」と評する人も何人もいます
女性というのは、自分のテリトリー内に自分より若い女性、しかもスーパーに優秀な女性が存在する、というだけで狂うものです
若く美しく優秀な嫁の「表現する機会」を奪ってまでも、雅子皇后が目立つことが耐えられない性格の美智子上皇后。1993年の結婚披露宴はもちろん、翌月のサミットでも、結婚したばかりの雅子皇后が脚光を浴びる光景を見なくてはいけないことは、大変なストレスだったことでしょう
上皇后と紀子さまの2人が結託し、雅子さまを邪険にしたんだろうなあということは、容易に想像がつくというもの。上皇后は雅子さまを一切庇わなかったし、上皇后によりかかって人気を保っている上皇も同様で、たいへん雅子さまに冷淡でした